
2026年01月15日
バングラデシュの英字日刊紙『New Age』に、当機構代表理事である関教授が執筆した英語記事が掲載されました。
本記事において関昭典教授は、2011年から続くバングラデシュとの教育交流の経験を振り返りながら、多文化交流における学びの本質について論じています。関教授が強調するのは、異文化理解とは知識を一方的に伝えることではなく、異なる歴史や文化的背景をもつ他者の声に丁寧に耳を傾ける姿勢から始まるという点です。他者との出会いは、自らが無意識のうちに前提としてきた価値観や文化を外側から見つめ直す契機となります。こうした視点の転換こそが、多文化社会において不可欠な学びであると指摘する。
記事では、日本社会が直面している多文化共生の課題にも言及し、イスラム教における埋葬のあり方など具体例を挙げながら、「違い」を管理や調整の対象として扱うのではなく、他者の尊厳を想像し敬意をもって向き合う倫理的成長の機会として捉える必要性を示しています。
さらに、未来社会のあり方について「快適さを維持すること」よりも「違いと向き合う勇気」が社会を形作ると述べ、多様性との関わり方が今後の世界を左右するとの展望を示す。異文化間の信頼関係は一度の対話で築かれるものではなく、日々の誠実な対話の積み重ねによって育まれるものであるとし、異なる背景をもつ人々が単に共存するのではなく、互いに学び合いながら希望をもって「共に生きる」社会の構築を呼びかけています。
『New Age』の記事:誌面版またはテキスト版
※遷移先リンクは2026年1月14日時点。
なお、英語記事ですので、以下に全文日本語訳を記載します。
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「共に学び合う」
多様性と共生をめぐる問い
社会がますます相互につながりを強めるなかで、私たちは重要な選択に直面している。多様性を管理すべき課題として捉えるのか、それとも成長の機会として受け入れるのか。未来を形づくるのは、居心地のよさをどれほど維持できたかではなく、差異とどれほど勇気をもって向き合ったかである。
異なる価値観や信念、生活様式に彩られた世界において、「共生」とは何を意味するのだろうか。この問いは、抽象的な思考としてではなく、私自身の経験を通して形づくられてきたものである。2011年に初めてバングラデシュを訪れて以来、私は現地で出会った人々から大きな影響を受けてきた。教育交流に長期的に関わるなかで、私は、意味のある学びは他者を教えることから始まるのではなく、耳を傾けることから始まるのだと理解するようになった。それは、異なる歴史や希望、責任のもとで生きる人々の人生に耳を傾けるという行為である。そうした姿勢を通して、私は他者と比較することによってではなく、自らの文化を外側から眺めることで、かえって自分自身の文化をより明確に理解するようになった。
人々が日々の生活をいかに尊厳をもって営んでいるかという点も、私の心に強く残っている。信仰、家族、共同体は、抽象的な理念ではなく、日常の判断や人間関係を形づくる、具体的で生きた現実として存在している。こうした出会いを通じて、私は倫理とは制度や規範によって一方的に課されるものではないことを学んだ。倫理は、人と人との関係のなかで育まれ、信頼によって支えられ、互いを思いやる行為のなかで表現されるものである。
他者と出会うことは、自分自身を見つめ直す機会でもある。普段は意識されにくい前提や価値観が浮かび上がり、当然のものとして受け入れてきた考え方を問い直すきっかけとなる。この意味で、異文化交流とは他者について学ぶことではなく、他者と共に学ぶ営みである。日本社会とバングラデシュ社会はいずれも、深い倫理的伝統に根ざしている。ただし、それらは異なる歴史的・社会的経験のなかで形づくられてきた。日本では、調和や責任、社会秩序を重んじる価値観が道徳意識に強い影響を与えてきた。一方、バングラデシュでは、信仰、家族の結びつき、共同体への責任が倫理的生活の中心に据えられている。これらの違いは、優劣を示すものではない。むしろ、人間の尊厳が多様な形で表現されていることを示している。
死と尊厳をめぐる現代的課題
こうした省察がとりわけ重要となる領域の一つが、死と尊厳に対する理解である。日本では火葬が非常に高い割合で行われており、多くの人々にとって一般的な葬送のあり方として受け止められている。一方、イスラームにおいては、土葬は信仰と深く結びついた宗教的義務である。この違いが十分に理解されない場合、善意に基づく対応であっても、意図せず人々に苦痛や疎外感を与えてしまうことがある。この問題は、もはや理論上の議論にとどまらない。人口減少が進む日本では、バングラデシュを含む多くの国からの人々が、日本社会のなかで生活し、働いている。
その広がりのなかで、埋葬を含む文化的・宗教的慣行をどのように理解し、尊重するかという課題が、現実のものとして浮かび上がってきている。一部の地域では、こうした慣行への対応をめぐって戸惑いや慎重な姿勢が見られることもある。しかし、それらは必ずしも敵意から生じるものではなく、理解や経験の不足に由来する場合も多い。
倫理はどこで育まれるのか
ここで問われている倫理とは、同質性や快適さを守ることではない。他者の人生を想像し、異なる慣習であっても尊厳を認めようとする姿勢である。倫理的成熟は、「私たちにとって何が普通か」という問いから、「いま何が尊重として求められているのか」という問いへと視点を移すところから始まる。バングラデシュとの長年にわたる関わりを通して、私は信頼は決して求めれば得られるものではないことを学んだ。信頼は、誠実さや忍耐、相互尊重を通じて、時間をかけて育まれる。もし私が文化的な確信や優越感をもって関係に臨んでいたなら、今日まで続く協働関係は生まれなかっただろう。真の協力は、制度や政策だけではなく、謙虚さと共感に根ざした倫理的な気づきのなかから育つものである。
社会の相互依存が進む現在、私たちは再び選択を迫られている。未来を左右するのは、快適さをどれほど保てたかではなく、差異とどれほど真摯に向き合えたかである。倫理は、哲学的な議論のためだけに存在する抽象概念ではない。それは日々の実践のなかで形づくられ、私たちの応答や行為のなかに表れてくる。尊厳と信頼に根ざした未来を築くためには、互いから学び合う姿勢が不可欠である。そのとき初めて、人々は尊重と理解、そして希望をもって共生する社会を築くことができるだろう。